※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※                                            セルフ・カウンセリング          ♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪             ( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!) ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※                     第 392 号  2023 年 7月   1日 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※    みなさん、こんにちは。    「 セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪ 」    をお読みいただきありがとうございます。    みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を    耳にしたことがおありですか?    これは、渡辺康麿氏が創案した、    書いて読む、一人で出来る自己発見法です。    私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、    みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、    同氏の著書を連載することにいたしました。    楽しくお読みいただけたら幸いです。   〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜    連載になっております。興味のある方は、    バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。       1号〜    「自分の心に出会える本」     23号〜    「自己形成学の創造」     32号〜    「セルフ・カウンセリングの方法」     62号〜    「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」    136号〜    「大人の自己発見・子どもの再発見」 176号〜    「自分を見つける心理分析」 286号〜    「避けられない苦手な人とつきあう方法」    334号〜    「わかっていてもイライラするお母さんへ」    356号〜    「小学生にわかっていてもイライラするお母さんへ」    376号〜 新連載「反抗期とわかっていてもイライラするお母さんへ」  バックナンバーはこちら→ https://secure02.red.shared-server.net/www.self-c.net/mg/index.html   〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜*〜・〜* ************************************** **************************************    人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、    いろいろな経験をします。        そして、その経験を通して、    「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいう    その人なりのモノサシを形作っていきます。    自分の生い立ちを振り返ることによって、    無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、    そのとらわれから自由になっていく方法を    自己形成史分析といいます。    セルフ・カウンセリングという方法は、    このような、自己形成史分析という    自己探究の方法が基礎になっています。        ☆★☆ セルフ・カウンセリングとは? ☆★☆    セルフ・カウンセリングでは、    自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。        家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。        テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、    相手がいない場面も大切な題材になります。    もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。    専門知識も必要ありません。        自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、    時間の順にそのまま書くと、リポートになります。    まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。    その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。        そして、相手の気持ちがわかります。        そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、    心を通わせてゆくための知恵が生まれます。        人間関係のすべてに共通する心のからくりを、    自分の経験を通して学ぶことができます。 ************************************** **************************************              「反抗期とわかっていてもイライラするお母さんへ」       中・高校生の心が見えてくるセルフ・カウンセリング                                  渡辺康麿著  より抜粋                         ( vol . 17 ) ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++          ─ 親子で学ぶセルフ・カウンセリング体験記 ─             ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++          2 親の言うことなんて!            と思っているのかしら!?                      子ども達への共感的な思いが            生まれたことに気づいて      的場由紀恵            兄弟がそれぞれの気持ちを表現できた!              ( 体験記 2 ー 後半 )   前号からの続きですので、バックナンバー391号から      お読みいただくとわかりやすくなっています。   ■私の書いた記述  【オレの視線見て、わかんないのかよっ】  【場面記述】  私と健一と慎司は、こたつに入ってくつろいでいた。  健一は、テレビを見ていた。  私は週刊誌を読んでいた。  慎司の姿は、こたつのかげに隠れて、私からは見えなかった。  健一の「オレの視線見て、わかんないのかよっ」という声が聞こえた。  私は<急に、どうしたの?また、兄弟げんかかしら。やれやれ>と思った。  私は顔を上げて、二人を見た。  健一が慎司のいる方を向いていた。  私は<大分、腹を立てているな。すごい顔してにらんでいる。いったい何があったのかしら>と思った。  慎司の「だって、どれだかわからないんだもん」という声が聞こえた。  私は<慎司に何かを取らせようとしているのかしら>と思った。  健一は「オレの目を見ればわかるだろっ、見ればっ。      オレの視線の先にある物ったらそれしかないだろっ。しらばっくれるなよ!」と言いながら、     慎司の方を指さした。  私は<えっ?自分の視線の先にある物を取れですって?     人を、あごどころか目で使おうっていうの?     ものを取ってもらうんだから、いくら弟でも、少しは下手に出れば良いのに。     いくらなんでも、今日の健一は、ひど過ぎるわ。ちょっと何か言ってやろうかしら>と思った。  慎司は「これ?これ、まだ全部読んでないんだ。ぼく見てるんだよ」と言った。  健一は「何言ってんだっ。おまえ、今見てなかったじゃないかっ。ウソつくなっ」と言った。  慎司は「今見てなかったけど、見ようと思ってたんだよ」と口をとがらせながら言った。  私は<どうも、けんかの原因は、マンガみたいだな。     さっき、慎司が横ばいになって、マンガ読んでいたっけ。     きっと、慎司はテレビを見ながら、マンガを読んでいたんだろう。     慎司がテレビの画面を見ていたので、健一が、その本を借りようとしたのか。     だけど、それだけのことなのに、なんでここまで腹を立てなくちゃいけないんだろう。     まったく、いつものことだけれど、健一のとげとげしい様子を見ていると、     こっちまでイライラして来てしまう>と思った。  健一は、私を見た。  私は<あ、私をにらんだ。“どうせ、俺が悪いって思ってるんだろう?”って顔している。     あんな目で見られると、ドキッとしてしまうな。何だか、こっちの気持ちが見透かされるようで。     やっぱり、もうちょっと黙ってみていよう。どうも、健一にも、何か言い分がありそうだ>と思った。  慎司は立ち上がった。  慎司の顔は真っ赤だった。  私は<慎司も、そうとう頭に来ているみたいね。目に涙をいっぱいためている。     それに、唇がふるえている>と思った。  慎司は健一にマンガを渡した。  私は<投げつけるようにして渡したな。     あれが、慎司にすれば、お兄ちゃんに対する精いっぱいの抵抗なんだろうな>と思った。  健一は、マンガをこたつの上に載せた。  健一はほおづえをついて、マンガを読み始めた。  私は<フフ・・・。なんだかおかしい。あの子だって、内心、そう穏やかでないはずなのに。     わざと、何にもなかったかのような顔をして、マンガ読んでる。    『何でもないことなのに、ピーピー言う慎司がいけないんだ』と言わんばかりだ。     さっきは、自分だってあんなに熱くなっていたくせに。わざと平気なふりして。     つっぱっているのが、丸見えだわ>と思った。  慎司は、こたつの中に滑り込んだ。  慎司は、こたつがけの端で、しきりに目のあたりをふいていた。  私は<いけない、いけない。おもしろがっていちゃいけないわ。     慎司の方は、とうとう泣き出してしまった。     でも、よく、ここまで我慢できるようになったな。     弱虫なりに、精いっぱいお兄ちゃんに抵抗している。     これで、もうちょっと、ちゃんと言い返せるようになると良いんだけれど>と思った。  ☆★☆ 健一や慎司に対する共感的な思いが生まれて来た ☆★☆    記述を読み返してみて、まず、気づいたのは、当たり前といえば当たり前なのですが、  この時、私が一言もしゃべっていない、ということです。  記述の“私の欄”には、みごとに心のセリフばかりが書きつらねられています。  私は、“私の欄”の心のセリフを、初めから最後まで読み通してみました。  すると、私の気持ちの流れが、前半と後半で、ずいぶん違っていることに気づきました。  前半、私は、健一に対して、腹立ちといら立ちを感じています。  始めに書いた「なにすんだよ!ババァ」の記述の時とほとんど同じような思いを、  この記述の前半で抱いています。  けれども、あることがきっかけとなって、私のうちから、健一に対する、否定的な感情は消えていきました。  そのきっかけは、それまで、慎司に対してどなり散らしていた健一が、急に私の方に向いて、  私に投げかけた一瞥(いちべつ)でした。  その健一のまなざしから、  私は、健一が、『オレにだって言い分があるんだ』と訴えているように感じられたのです。  以前の私でしたら、そこまで健一の気持ちを思いやる余裕はなかったと思います。  <親をにらみつけて生意気だわ>で終わっていたと思います。  それだけ私の中にゆとりが出てきたということなのかもしれません。  健一の気持ちをキャッチしたことがきっかけになって、  後半の私の気持ちは、前半とはまったく違ってしまいました。  健一の精いっぱいのつっぱりが、妙に、かわいく感じられてしまったのです。  また、慎司に対しても、弱虫は弱虫なりに、頑張ったんだ、と、  慎司なりの健闘をたたえるような気持ちになっていたのです。  ☆★☆ 健一が慎司とよりよくかかわれるようになるには、どうしたらよいのだろう ☆★☆  記述の“私の欄”を読み返してみて、  あらためて、自分の気持ちに余裕が出て来ていることに、気づきました。  それはそれで、とてもうれしいことだったのですが、ちょっと気がかりなこともありました。  私自身の気持ちは楽になったのですが、健一と慎司の気持ちはどうなのだろうか、  という疑問が私の中から起こって来たのです。  相手の欄だけを読んでみると、二人のけんかのパターンは、これまでと大して変わっていません。  健一が、一方的に慎司をどなり、慎司が鳴きながら、それに応じる、というものです。  これがさらにエスカレートすると、健一が慎司に手や足を出す、ということになります。  今回は、私が、手出し口出しをしなかったので、  健一の気持ちもそれほどはエスカレートしなかったのですが、  彼の胸のうちに、慎司に対する激しいいら立ちや腹立ちが生じたのは事実です。  <どうしたら良いんだろう。   健一が、もっと違った形で、慎司とかかわれるようになるには、どうしたらよいのだろう>  私は、そんな疑問を書き添えて、今回書いた記述を、通信講座に提出してみました。  ☆★☆ それぞれの子どもの気持ちをそのままに聞いてやる ☆★☆  しばらくすると、提出した記述に、講師の先生から添削がついて返ってきました。  その添削の中の一節に、私は、はっとしました。  そこには、次のように書かれていました。  「目の前で、兄弟げんかが起こると、たいていのお母さんは、   どちらが正しいか、公平な判断をしようとします。   お母さんが裁判官の立場にたって、どちらが悪いのかをはっきりさせ、   悪いことをした方の子どもを裁く、というようになりがちです。   けれども、このような形で親が子ども達を裁くことは、子ども達にどのような意味を持つのでしょうか。   お前が悪い、と親から言いわたされた子どもは、従順な子どもであれば、  “僕は悪いことをしてしまったんだ”と、自分に対して自信を失うことでしょう。   反抗的な子どもであれば、“私にだって言い分はあるのに、認めてくれなかった”   と親を恨むような気持ちをいだくかも知れません。   また、逆に親から支持された側の子どもも、“うれしい”という思いとともに、  “悪いことをしたら、親から否定されるんだ”という漠然とした不安を抱くことになります。   そのような自分自身や、親に対する否定的な思いは、   いつしか、子どものうちから、よりよく相手とかかわりたい、という欲求をつみ取ってしまいます。   では、親は、兄弟げんかに、どう対応すればよいのでしょうか。   私は、どちらが善い、どちらが悪いと裁くことなく、それぞれの子どもの気持ちをそのままに聞く、   また、本人が自分の気持ちを表現できるように助ける、それが、親の役割なのではないかな、と思います。   子どもは、親から、自分のありのままの気持ちをそのままに受けとめてもらえている、と感じることができると、   気持ちが落ち着きます。   その安心感から、相手の気持ちを受けとめ、   自分の気持ちを相手に伝える勇気が、子どものうちから自然と生まれてくるのです。   親が、そのように子どもに対応できるためには、親自身の気持ちの余裕が必要です。   親が子どもの感情に振り回されているうちは、   落ち着いて、子どもの気持ちを受けとめることができません。   今回の記述を読ませていただき、的場さんのうちには、   お子さん達を見守る、心の余裕が生まれているな、と感じました。   機会を見て、健一君や慎司君のお気持ちを聞いてみてはいかがでしょうか。」  ☆★☆ 子ども達に場面記述を書いてもらう ☆★☆  これまで、私は、兄弟げんかに関しては、  親が割ってはいって、どちらかを叱るか、全く介入しないで、  子ども達に決着をつけさせるか、のどちらかしか方法はない、と考えていました。  そして、事実、いつも、どちらかの方法で兄弟げんかに対応して来ました。  けれども、私は、どちらの方法で対応しても、何とはなしの落ち着かなさを感じていました。  それぞれの思いをそのままに聞くことで、  子どもたち自身のうちから、相手の気持ちを受けとめ、  自分の気持ちを伝えることができる力を引き出してやればよいのだ、という先生の言葉をお読みして、  私は、ようやく、私自身も心から納得できる解決方法に出会ったような気がして、ほっとしました。  ただ、私の中に、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)する気持ちもありました。  それは、私が、『あの時は、どんな気持ちだったの』と聞いただけで、  子ども達は、果たして、本当の気持ちを話してくれるだろうか、という思いでした。  特に、健一に関しては、日常の何でもない会話でさえ、ままならない状態です。  <どうすれば、子ども達から、無理なく気持ちを引き出すことができるのだろう>  そんなことを考えているとき、  ふと<子ども達に、場面記述を書いてもらったらどうだろう>こんな思いが私のうちから起こってきました。  場面記述を書けば、心のセリフの中に、その時のいつわらざる思いが、ありのままに表現できます。  それに、面と向かっては、親に言いにくいことでも、  記述用紙に書くのであれば、書きやすいかも知れません。  書いてみても、もし、私に見せたくなければ、それはそれで良いように思えました。  とにかく自分自身が自分の思いを表現することに意味があると思えたからです。  それは、私自身のセルフ・カウンセリング体験で感じたことでした。  私は、さっそく記述用紙を子ども達のところに持って行きました。  そして、こんなふうに説明してみました。  「この間、こたつのところで、二人でけんかしてたよね。   あの時のこと、この紙に書いてみない?   健一も慎司も、きっと口に出して言えなかった思いがたくさんあると思うんだけど、どうかな?   そういうのって、だんだん積み重なってくると、何だか、苦しくなってくるよね。   お母さんは、この紙に自分の気持ちをそのままに書くことで、気持ちが本当に楽になったの。   だから、健一も慎司も、自分の本当の気持ちを書いてみると、   きっと気分がすっきりするんじゃないかなって思って・・・。   どんなこと書いてもいいよ。   相手の悪口だって、どんなきたない言葉づかいだって、   もし、その時、心の中で叫んでいたんだったら、そのままに書いてみたら良いと思う。   本当は、書けたものをお母さんは読みたいと思うけれど、   もし、誰にも見せたくなければ、そのまま自分で持っていれば良いと思う」  子ども達は、意外なほど、真剣に私の話を聞いてくれました。  そして、簡単に書き方の説明をすると、慎司は、すぐにその場で書き始めました。  健一は、記述用紙を手元に引き寄せましたが、そのまま、雑誌の方に視線を落としていました。  ■慎司の書いた記述  ぼくはこたつに入って、テレビを見ていた。  ぼくは<この番組、おもしろくない。マンガでも読もうかな。      さっき読んでたの、そこにほってあるはずだ>と思った。  『ジャンプ』がテレビのすぐ前に置いてあった。  ぼくは<あった、あった。このままじゃ、手が届かないな。       でも、こたつ出るのやだな。めんどくさいな>と思った。  お兄ちゃんが、何か言った。  ぼくは<お兄ちゃんがなんか言ってる。そんなにぼそぼそ行ったんじゃ聞きとれないよ。      でも、聞き返すと、すぐ怒るしな>と思った。  お兄ちゃんが「それとってこれって言ってるんだよ!」と言った。  ぼくは<あ、それ取れって言ったのか。だって、聞こえなかったんだもん。      しょうがないじゃん。そんなにこわい顔しないでよ>と思った。  ぼくはまわりを見わたした。  ぼくは<“それ”ってなんだ?お兄ちゃんのほしそうなもの、このあたりにはないぞ>と思った。  お兄ちゃんは、すごいこわい顔していた。  ぼくは<どうしよう。お兄ちゃん、今にどなりそう。もう一回、どれ?って聞いたら、絶対どなるぞ。      こわくて聞けない。どうしよう。でも、このまんまじゃ、やっぱりどなられちゃう。      どうしよう。あー、もう適当に、何でも良いから渡しちゃおう>と思った。  ぼくは、こたつのそばにあったマフラーを取った。  ぼくは「これ?」と言った。  お兄ちゃんが「ばかっ。そんなもの、何でほしがるんだよ!!         なんでわかんないんだよ。それだよ。それっ!」とどなった。  ぼくは<“それ”っていわれてもわかんないよ!わかんないのは、しょうがないじゃない。      もう、いいかげんにしてよ。どうして良いか、本当にわかんないよ>と思った。  ぼくはどきどきした。  胸の奥がつまるような感じがした。  お兄ちゃんは「なにボーッとしているんだよ。それだよ。それ!オレの視線見てわかんないのかよっ!」  ぼくは「だって、どれだかわかんないんだもん」と言った。  お兄ちゃんは「オレの視線の先にあるモノったら、その本しかないだろっ。しらばってくれるなよっ」        とすごく大声でどなった。  ぼくは<え?この本?だって、これ、ぼくが読んでたんだよ>と思った。  ぼくは「これ、ぼく読んでるんだよ」と言った。  お兄ちゃん「何言ってんだっ。おまえ、今読んでなかったじゃないかっ。ウソつくなっ」と言った。  ぼくは<うそじゃない。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。      本当に読もうと思ってたんだから・・・。      でも、どうせこれ以上言ったって、お兄ちゃんにはわかってもらえない。      いやな思いばっかりするだけだ、もう、早く終わりにしてしまおう>と思った。  ぼくは、本を取って渡した。  ☆★☆ お兄ちゃんが悪いわけじゃなかったんだ ☆★☆  書き終えてから、私は慎司に、記述を何度か読み返してもらいました。  そして、何か気づいてたことはないか、と聞いてみました。  慎司は 「書くまで、僕は、お兄ちゃんはひどいって思ってた。  僕の読んでた本、無理やり取り上げちゃったから。  でも、記述を読み返してみて、こたつに入ってぐずぐずしてた僕も悪かったんだと思った。  僕がさっさと本を取ってれば、よかったんだ。  それから、僕の読んでた本っていうことは、僕だけがわかってたことだったのかなって思った。  だって、本は僕のところにあったわけじゃないし、  本を読もうかなって思っただけで、本を取ったわけじゃないから。  お兄ちゃんだけが悪いわけじゃなかったんだ、と気づいた」と話してくれました。  ☆★☆ 「えー、こんなの簡単だよ」 ☆★☆  私は、生活の一コマを書き、それを読み返す、というだけで、  慎司が、これだけのことに気づいた、ということに驚きを感じました。  記述することで、自分と健一とのことを、まるでドラマを見るように客観的に振り返っているのです。  <大人の私が、自分自身のことを突き放して見るのに、四苦八苦しているのに、   子どもの慎司は、いともやすやすとそれをなし遂げている。すごいな>と感心してしまいました。  けれども、よく考えてみると、子どもだからこそ、それが簡単にできてしまったのかも知れません。  私の中には、“母親はこうあらねばならない”“大人はこうあらねばならない”という、  自分のネウチを確かめるためのモノサシがたくさんあります。  自分自身を客観的に見る、ということは、  そのようなモノサシにかなわない自分自身の姿と出会うことであります。  それは、とてもつらいものです。  それで、知らず知らずのうちに、認めたくない自分の姿に出会うことを避けようとしてしまうのです。  それに比べて、慎司くらいの子どもには、  まだ、“こうあらねばならない”と言うような強いモノサシはないように思います。  ですから、私が自分の気持ちを率直に書いてごらんと言えば、そのままに書くし、  その時の気持ちを思い出しながら読み返すように促せば、  何の抵抗もなく、その時の実感をじっくりと味わいながら、読み返すことができるのではないでしょうか。  私は慎司に 「すごいよ。お母さん、びっくりしちゃった。  初めて書いたのに、慎司のこの時の気持ちが、とてもよく書けてた。  お母さん、慎司の記述読んで“そうか、そんな気持ちだったのか”って思った。  それに、いろんなことに気づいたね。  お兄ちゃんは悪くないっていう気づき、本当にそうなのかも知れないね。  お兄ちゃんは、慎司がその本を読もうと思っていたこと、わからなかったのかも知れないね。  すごいことに気づいてね」と言いました。  慎司は、にやにやしながら「え─、こんなの簡単だよ」と言っていましたが、  その表情は、何とも、得意そうでした。  ☆★☆ 「ほら、書いてやったぜ」 ☆★☆  私は、<慎司に記述を書いてもらって、本当によかった>と思いました。  慎司は、これまで、健一が突然不機嫌になり、いきなり暴力をふるうのが、怖くて仕方なかったのです。  けれども、今回、記述を書いて、  健一には健一なりの理由があって怒っているんだ、ということが、何となくわかったのではないでしょうか。  それだけでも、少しは、健一に対する恐れの気持ちがゆるむのではないかな、と感じました。  また、今回、慎司は私と会話しながら、記述を書き上げました。  「お兄ちゃんが、こう言った時、慎司はどんな気持ちだったのかな」  「えーとね、また、怒られるんじゃないかなって、どきどきしたんだ」  「じゃあ、それを心のセリフにしてここに書き入れてみよう」というように。  ですから、慎司の記述や気づきの内容は、そばにいた健一の耳にも、入っているはずです。  それが、慎司の気持ちを伝えることになるのではないか、と思いました。  私は、健一と慎司の二人に記述を書くようにすすめましたが、  本当のところ、ここまでできれば、大成功というぐらいの気持ちでした。  <慎司は書くかも知れないけれど、健一は無理だろうな>と思っていたのです。  ところが、その翌日のことです。  学校に行く健一を玄関まで見送ると、  「ほら。書いてやったぜ」と、ちょっと冗談めかして言いながら、健一が私に記述を差し出したのです。  私は、びっくりしてしまいました。  そして、とてもうれしくなってしまいました。  「うれしいわ。大切に読むからね」と言うと、  健一は、ちょっと照れたような顔をして、玄関を出て行きました。  ■健一の書いた記述  僕はテレビを見ていた。  僕は<くだらねぇな、なんで慎司はこんなの見てんだよ>と思った。  テレビの脇に、『ジャンプ』(マンガ雑誌)があった。  僕は<あっ、チャーンス!慎司が読み終るの待ってたんだ>と思った。  僕は慎司に「おい。それ取れよ」と言った。  慎司はぼーっとこっちを見ていた。  僕は<なんだ、こいつ。なんか文句あるのかよ>と思った。  僕は「それ、取れって言ってんだよ」と言った。  慎司は周りを見回した。  僕は<ばか!『ジャンプ』に決まってるじゃねぇか。他に何もないだろっ?何でわかんないんだよ>と思った。  慎司は「これ?」と言いながらマフラーを取った。  僕は<マフラーなわけないだろ!>と思った。  僕は「違うっ!それだよ、それっ!」と言った。  慎司は「わかんないよ」と言った。  僕は<わかんないわけないだろっ!すぐ目の前にあるじゃないか!!     こいつ、自分が読みたいもんだから、自分のところにキープしておくつもりだな。     ずるいやつ!慎司は、使うか使わないかわからないようなもんでも、何でも自分のものにしておくんだ。     それで、俺がちょっとでもそれに手を出すと、取られたって、大げさに文句言いやがって!>と思った。  僕は「なんでわかんないんだよ。俺の視線見てわかんないのかよっ!」と言った。  慎司は「だって、どれだかわかんないんだもん」と言った。  僕は<バカヤロー!またそんな声出しやがって。     この声聞いて、また、ばばぁが、俺に文句言いにくるんだ。どうせ俺が悪いんだろ!>と思って母をにらんだ。  僕は慎司に「いいかげんにしろよ!ジャンプに決まってるじゃないか。しらばっくれるやがって!!」と言った。  慎司は「僕これ見てるんだよ」と言った。  僕は「うそつくな!テレビ見てたくせに」と言った。  慎司はジャンプを投げてよこした。  僕は<くそっ!頭くんな>と思った。  ☆★☆ 健一の気持ちが見えてきた ☆★☆  健一の記述を読んでこの時の健一の気持ちが、そのまま伝わってくるような気がしました。  健一も始めから慎司に腹を立てていた訳ではなかったのです。  ただ、漫画を取ってもらおうと思っただけだったのです。  ところが、思いのほか慎司の反応が鈍く、それに対して次第にじれて、感情的になってしまったのです。  そのような健一の胸のうちが、実感として、私にも伝わってきました。  また、“使うか使わないかわからないようなもんでも、何でも自分のものにしておくんだ。  それで、俺がちょっとでもそれに手を出すと、取られたって、大げさに文句言いやがって!”  という個所を読んだ時には、私ははっとしました。  確かに、慎司にはそんなところがあります。  けれども、兄弟げんかの時、私はいつも、傍若無人にふるまう健一が悪い、と健一ばかりを叱っていました。  あらためて、<健一には健一なりに、我慢を重ねて来た思いがあったのかもしれないな>と感じました。  ☆★☆ 私が変わったら、子ども達二人が変わってきた ☆★☆  さて、兄弟それぞれに記述を書いてもらってから、健一と慎司の様子が、何となく変わってきたのを感じます。  それまでは、ささいなことがきっかけで、すぐ、殴るけるの大ゲンカになっていたのですが、  最近は、それがなくなりました。  健一に対する時の慎司の表情にゆとりが感じられますし、健一も、すぐにカッとすることがなくなりました。  時に健一の表情から、以前の険しさがなくなったことが、私にとっては何よりもうれしいことでした。  健一にとっては、記述を書き、それを私に渡した、ということ自体が、良かったようです。  自分の書いた記述を私に渡していった時の顔は、どこか晴れやかでした。  <この子は、これまで、『どうせ、言ったってわかってくれないんだ』と、   さまざまな思いを自分の中におし込めて来たのかも知れないな。   それを、表現することができた、私に伝えることができた、ということで、   気持ちが落ち着いたのかも知れないな>と思いました。  つい先日、健一がこんなことを言ってきました。  「慎司のやつ、俺のファミコンで、とんでもないスカやっちゃってさ。   いつもなら、どなりつけるところなんだけど、あいつ、顔がひきつっているんだ。   なんか、急にかわいそうになっちゃって、何も言えなくなっちゃたんだ。   俺らしくないよな。俺、病気かもしれない」  健一が、こんなことを私に言ってきた、と言うこと自体、私にとっては驚きでした。  また、健一に、慎司の表情から慎司の気持ちを読み取るゆとりが生まれてきたことにも驚かされる思いでした。  “俺、病気かもしれない”という健一なりの照れ隠しが、  何とも言えずおかしく、また、かわいく感じられ、胸の奥が、何だかじーんと温かくなりました。  セルフ・カウンセリングによって、私が変わったら、兄弟二人がこんなにかわってしまったのです。  とても不思議な気持ちがしています。                           つづく・・・  次回は    「 セルフ・カウンセリングの運動の歩み 」    をお送りいたします。        どうぞ、お楽しみに!    皆様のご意見ご感想をお寄せいただけたら幸いです。  self_counseling2000@yahoo.co.jp  セルフ・カウンセリングには、  通学講座、通信講座など様々な講座があります。  詳しい内容はこちらから →http://www.self-c.net/sutady/index.html              →https://www.self-c.jp/study/self-counseling/  ご興味のある方は、下記の事務局までお問い合わせください。    一般社団法人生涯学習セルフ・カウンセリング学会  〒215-0003 神奈川県川崎市麻生区高石4-23-15  URL  http://www.self-c.net  電話 044-966-0485 ファクシミリ 044-954-3516  電子メール  self_counseling2000@yahoo.co.jp      ************************************** ************************************** ◎このメルマガに返信すると発行者さんにメッセージを届けられます ※発行者さんに届く内容は、メッセージ、メールアドレスです